| 小学校の先生が美術好きで、「子供二科展」に出品。
金賞を受賞。その先生に、「色々な素材を工夫して制作するように」教えられたので、自由な発想で描いたことが今も影響している。 祖父、母、おじさんが美術をやっていたので油絵をやろうと思い、中学2年の時、油絵教室で2年間デッサンと油絵を大人の教室で学ぶ。大学は芸術学専攻で、美術の先生になろうと思っていたが・・・オーストラリアに行くことになり、シドニーイーストテクニカルカレッジで一年油絵を勉強。そのころ「大門まるう」という名前を初めて使用した。
※大門まるうという名前の誕生とは? 「まるう」はオーストラリア人がつけたアダ名でありまして、あるシドニー港に友人と遊びに行った時、当時日本のマグロ漁船の基地港として有名で何百もの日本船が多く停泊していて、どれも○○丸という船名がついているのでオーストリア人の友人が不思議そうにどれも「丸MARUという船名がついているのはなぜ?」と尋ねられました。そこで私は適当にこう答えたのです。「MARUというのは船の神様の名前で、安全航海を願ってつけられている名前で、日本の船では100%に近い程この名前がつけられている」というと彼は、「MARUというのはフランス語で「小悪魔」だよ。まるで君みたいだね」と笑ったのです。
それから後、自然に私は「まるう」と呼ばれ出して現在に至ります。 |
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ところで「大門」のほうの由来は、というと・・・
初めは画号を決める時、「まるう MARU」だけでいく予定だったのだが、それでは何か物足りない気がしたので、当時アニメで流行っていたのが「ライオンマル」…
「大門」と「ライオン」の撥音が外国では良く似ているのでそこから「大門まるう」となったわけで…それと、「ダイヤモンドの発音にも似ていて、いつかはきらりと光るのでは?…シャレみたいなものですネ。
美術に理解のあった母が占いの先生に心配して「大門まるう」を字数で見てもらうと、帰ってきて、 「あんんたこの名前は50歳過ぎるまでダメで、その後パーッと良くなる「大器晩成型」やから、良くない」と反対されたのだが絵本の出刊と私にとって初めての個展も控えていたのでそこからその名前を使用。
それから30年。 母の占いは当たっていたのでは?と思うようになってきた。 |
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最近でこそやっと絵という技法も少しわかってきて色も、割と良い色が出始め、絵も売れ始め…、1990年〜2000年は他の仕事が忙しかったこと、絵の壁にぶち当たり約10年発表せず注文製作にしぼり、技法を勉強し、自分の出したい色「HIGH-POWER-COLOR-ILLUSION」を発案。
2001年から発表を再開してもう5年も経ち、自信が出てきたのですが、母の心配は絶えることは無かったでしょう。昨年11月にこの世を去ったのが残念でたまらない。 |
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◆1976年〜1989年
1976年は、絵を描き初めて第1昨目、「祇園祭」を初出品。大阪市賞を運良く受賞。 その後、初個展、絵本出版と半年の間に続いた。後に、13年間修行という意味で、各地を回り、大きな美術展で一度入選受賞したところは、2度と出さないという考え方で出展を繰り返す。
日本の美術会は派閥審査、順巡り賞の選定など当時「純」な私としてはそれが嫌で、コンクール展主に海外に出品する事に方向を変え、出品した作品はすべて入選したのです。不思議…。
その間12年間で個展10回、グループ展も8回、人間界展(最大30人の会)もやっていました。あの頃は若くて楽しい時期でした。その間多くの作家とも交流し、まさに天才という人と、多く出会い、刺激されました。 |
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◆1990年〜1999年
1990年から店鋪プロデュースの仕事や、大阪日豪協会の設立などで時間が取れずまた絵画的スランプの壁にぶち当たり約10年間注文製作にしぼり、技法を1から見つめ直し、自分独自の色を出すことに目標をしぼって製作を続けました。
◆2000年〜2005年 50歳を過ぎ、占いどうりに良い話を頂くようになり、ホームページ上で、
「大門まるうぎゃらりー」を開設。 第11回個展「MARU WORLD」を大阪ウェスティンホテルにて開催。版画シリーズ6点を発表して、「大門流高強力原色異流余ん」の確立を宣言し、第12回個展「MARU
WORLD2」で満30周年を記念して画集、1976年〜2005年を発刊することになりました。 |
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